2012年の日本デビュー以来、その流麗なデザインと官能的な走りで、
人々を魅了した3代目ジュリエッタは、まもなくモデルライフを終了しようとしている。
日本のアルフィスティが語るジュリエッタへの愛は、どこか特別な“熱”に満ちていた。
私たちは、それを忘れることはないだろう。
ありがとう、ジュリエッタ。
その名はアルファ ロメオの歴史に、永遠に刻み込まれる。
1988年「キッチン」でのデビュー以来、現在まで日本を代表する作家である吉本ばななさん。
アルファ ロメオの母国イタリアでも高い人気を誇り、数々の文学賞も受賞しています。
そんな吉本さんがアルファ ロメオのために書き下ろした掌編小説を公開。
ジュリエッタをモチーフに展開する「愛の記憶の物語」をご堪能ください。
別れた恋人とイタリア旅行をして、ヴェローナにあるジュリエッタの家を見に行ったことがある。
ジュリエッタの家は観光客でいっぱいだった。ジュリエッタの像があって、その細長い姿といっしょに写真を撮ってもらった。私の笑顔は少し淋しそう。もう、別れが次のカーブの先に見えていたから。近くにいる人にふたりで写真を撮ってと頼むこともなかった。
ジュリエッタの右胸を触ると幸せになるという言い伝えがあって、ふたりともちょっとだけ触った。恥ずかしそうな顔で笑った彼の横顔をよく覚えている。
有名なバルコニーはきっと当時と変わらない雰囲気なのだろうと思えた。小さくて、ロマンチックに張りだしていて。
旅のあいだは別れ話をしないようにしようと、暗黙のうちにふたりとも決めていたみたいだった。
ダンテも住んでいたんだ、この街。
と彼は言った。
ダンテの像があったので、ネットで調べてみた。
イタリアの広場でスマートフォンを持ちのんびりネット検索などしていると、スリに囲まれやすい。私は彼を守るように立った。その瞬間だけ、ふたりは元の熱い恋人同士みたいだった。
でも私たちは昔のように腕を組むこともなく、並んで歩きながら、その地方の名物の松の実のパスタを食べて、ワインを飲んだ。
そしてホテルに帰って愛し合った。それが最後だった。子どもでもできてくれたらいっそ切り替えられるのにな、と私は思った。
彼はその年の春に脳梗塞で倒れたお父さんの仕事を手伝い後を継ぐために、年内に実家に帰ることになっていた。実家の人たちは私の存在を知っているのに、とってもすてきな人だけれど、あんな華やかな人が田舎に引っ込むのはむりよ、と口を揃えて言い、お見合いまでしっかり用意しているらしかった。
愛の力で全てをくつがえす自信があった。きっと好かれるようになるだろうし、なじむだろうし、仕事も手伝うし。
でも私は自分が働いている会社で、営業から望みだった広報に異動したばかりだった。小さいながらもいくつかプロジェクトを手がけて、これから大きなプロジェクトに移ろうとしているときだった。そして年齢もはんぱだった。子どもを持つか持たないか真剣に考えるまでには、あと数年あった。
迷っているときに、東京がふるさとの私の母が病気になった。私は独り暮らしの部屋から実家に帰って母の生活を手伝わなくてはいけなくなったし、心からそうしたかった。父は私が高校生のときに亡くなっていて、私はひとりっ子だったから。
私たちは、ロメオとジュリエッタほどドラマチックにではなく、とっても地味に、でも同じように両家の事情で別れていくしかなかったのだった。
私の赤い車を運転するのは、ほとんど彼だった。私は助手席に乗ってばかり。
彼がいなくなって、私が運転するようになった。
ハンドルやブレーキに彼の癖が残っている。
でも大丈夫、私の車はまた私だけのものになって、いろんな場所に一緒に行く。新しい恋をしても次は私が運転しよう、と思った。私の人生は私のもの。しょげていないで、かっこよく走ろう。この車ごと、誰かがまた私を見つけてくれるまで。